昭和40年09月15日 朝の御理解



 「身に徳を受ければ、心配はない」と、どうぞ、身に徳を受ける信心。心配をせんで済む信心。どんな場合に直面いたしましても、驚かんで済み、心配せんで済むだけの、信心。その、そういう信心を、私は、徳を受けた人の信心だと思うんですね。身に徳を受ければ、心配はないと仰る。ということは、身に徳を受ければ、ね。腹の立つようなこともなくなるし、身に徳を受ければ、不安、焦燥と。
 例えばいらいらしたり、心が不安におののくといった様な事は、なくなるんです。「身に徳を受ければ、心配はない」と。そこでその、身に徳を受ける信心と。身に徳を受ける信心という信心は、どういう信心をさせて頂いたらよいかと。沢山な御道の信奉者がございます。非常に熱心なご信者が沢山おられます。これは、もう、御道の信奉者のなかにも、まあ普通教会で本当に、珍しいような信心をされ。
 何十年間朝参りが続いておるといったような方達は、まあ普通の教会だったら二人や三人、そういう人達がおられますですねえ。そういう人たちが皆「身に徳を受ければ、心配はない」といったような、そのお徳を受けてござるかというと、そうではないのです。ほんとに信心しとりますから、もう安心でございますと、信心しとりますから、いよいよん時には、神様に御願いすればと言うてその、おられる人でもです。
 平穏無事なときには、なるほど有難い、一家も睦まじゅういかにも信心させて頂く者の家庭らしい、雰囲気がだんだん出来てきて一家を挙げて、信心させてもらうことになりますけれども、さあ少し雲行きが悪うなってまいりますと、ね。穏やかであった家庭も、穏やかではなくなり。今まで信心しておるから安心と言っておったその安心が、だんだん不安の色が濃ゆうなってくる。
 いわゆるそのことが、頭痛の種になったり、または心を暗くしてしまう基になったりする。そういうその心を暗くするような基、そういうような時こそ、実を言うたら心の真実の光を頂くチャンスなのだけれども、その頭痛の種と思うようなことこそ、徳の種なんだけれど、その徳の種を種とせずにです、ね。それを例えば地にまくような、まあそのう事をせずに、それが信心が足並みが乱れていき、信心が宙に浮いてくる。こんなものでは用がない。これでは光の基になるはずがない。
 日頃が熱心に信心も出来ておる。信心の家庭と。らしゅうしとるけれども、実際さあ雲行きが怪しゅうなってくるとですたい、信心が怪しゅうなってくる。いわゆる信心をしておれば、身に徳を受ければ、心配はないと仰る。そういう信心が身に付いていなかったという事になるんです。私はそこまで行かなければ駄目だと、ね。信心を頂かせてもらうには。まあ「身に徳を受ければ、心配はない」というところまでは行かんでもです、そういう時に、いよいよ本気で修行の腰を作らしてもらい。
 心配する心で信心しよと仰る、その心配する心で、神様に今まで出来なかった修行でもさしてもらい、今まで出来なかった改まりでも改まらしてもらい、神様に本当に打ち向こうていく、言うならああ十二分の徳を受けようと思えばままよという心を持ってしなければ、お徳は受けられない様にその、ままよとどん腹を据えて、神様に打ち向かう位の元気な信心の基礎ぐらい土台ぐらい、作っとかねば可笑しいと思う。ね。
 そしてそれが光を頂くことであった、お徳を受ける土台であったというふうにです、あとで分からして頂くだけのおかげを頂かせてもろうた時、初めて身に徳がついてくるのじゃないかとと私は思う。ね。おかげを受けられるチャンスに恵まれておりながら、それを右、左にする。おろそかにする。そしていよいよ心配になるときに、神様に打ち向かえばよいのに、神様のほうには打ち向かわずに、あちらの方こちらの方ばかりを、方角違いの方ばかりを向くようなことではね、私はおかげは受けられん。
 昨日、私ある難儀なまあその人にとっては難儀な問題を、ギリギリな難儀な問題とこう思うておられる、その難儀な問題をお取次ぎさせて頂いた。熱心に信心も出来よる。毎日お日参りも出来よる。ところがその問題がやっぱり問題だもんですから、あのう心が真っ暗なんです。ご主人が晩に参ってきてからもう涙ばっかり流しておる。ご主人もそのことに一生懸命、まあ心配してからこちらには向かずに、あちらのほうを向きよるわけなんです。ね。例えていうならま金が足りない、なら金が足りない。
 さあ今度の支払いが出来なかったら、家が潰れるごとある。それで日頃一生懸命信心しておる家内がいうなら、ま泣きの涙。主人はあんまりそげん泣えてどうするか。と言うて一日中あっちこっち、例えばお金を借りに廻ったと致しましょうか。したっちゃ借り出さんで帰えって来たとこういわれる。そいう時こそ、私は夫婦のものがいよいよ日頃の信心に、物言わしてです。ね。
 もうどん腹据えてお父さんいっちょ最後の最後までお縋りするのが、ほんなこつじゃないですかと、今まで一遍お参りした、二遍さして頂いて、いっちょおかげ頂こうじゃないですかと。ね。それこそこう言う時でしょう、ままよという心になるというのは、というようなです。信心をさして頂きゃ良いんですけれども、家内は泣きの涙。主人はこっちは向かで、向こうの方ばっかり歩いておると言った様なです。
 愈々の時にですよ。そういう信心では身に徳を受け。言うなら身に徳を受ければ、心配はないと言った様な、それから先の有難い世界というのは開けて来ない。その事を御願いさせて貰いよりましたら、ね。紋付をつけてこの下の紋付をつけて、袴をはいて足袋をはいておる所まで頂くんですね。さあこれからがです。羽織を羽織らせて貰わなければ。その先に神様がほんともう、おもむろに扇子を持たせて下さる時だと。ね。
 羽織袴に身を固めて、白扇でももった姿です。こういう姿の信心にならなきゃならんぞという、お知らせを頂いた。ね。いわゆる羽織袴をつけたような、きちっとした信心というのがです、こういう時に出来るのだと。ね。神様に打ち向こうて、一生懸命日頃信心をさせて頂いておるというのはです。ね。紋付を着て袴をはいて、白足袋をはいたような、そこまでの信心は、今日は貴方も私が申します、どこの教会でも二人、三人ぐらいおられますですね、そういうような信心が。
 ところが、それから羽織を羽織って、そして神様がこう白扇を持たせて下さる。白扇といやあいよいよ末広に成って行く。いわば家繁盛の土台である。親の代よりも子供の代である、子供の代よりも孫の代である。日勝りといわず、月勝りである。年勝りであり、代勝りの基をそういう徳を、下さろうとするのだけれども、羽織を羽織ろうとしない。どう言う様な事だと皆さん思われますか。
 椛目でもまあ言うなら、羽織ははおっとらんでも、紋付までつけたところぐらいの信心はしとろうけれども、羽織ははおってない、これは一番外に着るもの。外部内部は信心で固まって行きよってもです。ね。成程信心がなかってもです、信心しよんなさるお店だけに、信心をしなさる家庭だけにです。ね。言うなら誰が見ても、信心の家庭であるというようなです、信心しとるもの同士が見て、はあ熱心な信心が出来なさるだけではなくてです。ね。言うなら信心のない隣近所の人達でもです。
 なるほど、金光様のご信心とは、教えがよっぽど良いじゃろうというくらいなものがです。こう出てくるくらいの信心をしなければ、駄目ですよ。例えば商売をしておるならばです。信心のなか人のところのほうが安い。信心のないところのお店のほうが信用がある。ね。信心のないところのほうが品物がいい。堅実だと実意だと。かえって親切だと。と言われるような事ではです、私は神様は安心して、白扇を持たせて下さる様な事はなかと思う。そういうおかげを受けたときに始めて私は、ね。
 外から見ても、外部から見てもです。なるほど信心の家庭として、信心をしよる人としてです。認められるくらいの信心が身について来た時にです。ね。初めて私は末広を頂かせてもらうのであり、いわゆるお徳を頂かせて下さる時だと私は思うです。皆さんも一つ、自分の信心を内外ともに見てみて、ね。検討してみてほんとに信心しておるけん有難いと。ほんとに信心してない人達は気の毒なと、ま思うておるけれども。
 それをもう一遍です、気の毒だと思っている、かえって信心のない人達のほうが、立派だと言われる様なことはなかろうか。信心しとるけん有難いと言いよるけれどもです。平穏無事だから、有難いと言っているのじゃなかろうか。さあ雲行きが悪くなった、雨だ風だということになったら、あわててこちらのほうへは向かずに、あちらのほうへ向いてまわるようなことはなかろうか。
 さあどうなるだろうかというたら、もう泣きの涙で家の中で引きこもっておると言った様なです、意気消沈してしまうような、信心でしかないということをです。分からして頂いたらいよいよです、私は本気で信心させてもらい、本気で教えに取り組ましてもらい、本当に、信心生活本当に教えがです家庭のなかに外部に、ね。まあ言うならば匂うてでておるような、見回して果物のお供えが二台ある。
 御神前に座ると、いわば新鮮な果物の、匂いがぷうんとする。信心の家庭の中に入ったら、何となし信心の香りのするくらいなです、おかげを頂かして頂くために、もう一段私共がです、紋付も着た袴もはいた足袋もはいた、もう一つのです外部に羽織を羽織らせて頂くようなおかげを頂かせてもらう、信心させてもろうて始めて神様がです。もう言うなら大丈夫という、御思いで私は白扇を持たせて下さるようなおかげ。
 いわゆる羽織袴に身を固めて、白扇を持たせて頂いたような姿、きちっとした信心から、きちっとしたおかげが頂けて来る。いわゆるおかげじゃないもうすでに徳である。そういう信心させてもらったら初めて私は、ね。信心身に徳を受ければ心配はない。本当に徳を受けたものの姿というものはです。紋付袴というよりも羽織袴をつけさせてもろうて、白扇をもったような姿の、信心のことではなかろうかと私は思うです。ね。
 ところがさあまあだ、足袋もはいとらん。まあだ袴もはいとらん。と言ったような人たちもまあだ、沢山あろうかと私は思うのです。ね。どうぞ一つ日頃の信心に物言わせて、愈々の時でこそ力を受けるときであり、光を頂くときであると。ひとつ分からせて頂いて、そこんところを思い込ませて頂いとかんと、いよいよの時になって失敗する。いよいよのときに、受けられる筈のおかげが、受けられないと、私は思うですね。
   どうぞ、おかげ頂かれてください。